鹿背山薬師如来坐像と両脇侍薬師如来坐像

【鹿背山薬師如来坐像と両脇侍薬師如来坐像】

(平安後期・京都府指定文化財)

 

《解説》薬師堂本尊。当寺にのこる棟札や縁起によれば行基

の建立で、薬師如来を本尊とする鹿山寺の塔等浄勝寺が当寺

の前身である。しかし、『東大寺雑集録』は、この薬師像が

奈良中ノ川成身院の旧仏とする記事を収めている。室町期に

は、中ノ川成身院と鹿山寺ともに興福寺六方衆徒を構成して

いた中の菩提院方末寺の仲間であったこと。

文明10年(1478)中川寺焼亡以後再興されなかったため

梵鐘は神戸に、毘沙門天像は東京にと移され現存が確認でき

ることなどから、当像は同じ仲間の鹿山寺に遷され以後本尊

として当寺に伝来したと考えられる。

 当坐像は、ヒノキ材。頭体および両足部までを完全に一材

から彫り出し、耳後の位置で頭体を前後に割り矧ぎ、頚部三

道下で頭部を割り矧ぐ。また両足部は腹部のまるみに合わせ

て割り矧ぎ、さらに両足部自体も竪に六片に割り矧ぐ、像内

に内刳りを入れ金箔をほどこしているのでおそらくは胎内に

納入品があったと推察される。本尊は過去に本体と蓮肉を共

木とする解説があったが、本体を竪木に蓮肉を横木としてい

る。

 台座銘に「永正14丁丑(1517)弥五郎作 此ツシ(厨

子)ハ」とあり、厨子の製作年代を知ることができる。

 

 

【薬師如来両脇侍 日光・月光菩薩立像】

(室町期・京都府登録文化財)

 

《解説》薬師堂厨子のなかに本尊薬師如来坐像の脇侍として

安置される。月光菩薩(向かって左)台座底面の墨書銘「奉

寄進 右志趣者 為現世安穏後生善所也 永正11甲戌

(1514)8月10日 英紹法印」とあることから造立年代

がわかる。技法的には、両像とも体幹部は一本造、頭部は前

後に矧いで玉眼を篏入し、体幹部に柄立てする。全体のプロ

ポーションが整い、室町時代彫刻にしばしばみられる鈍重さ

も無く、落ち着いた典雅な像である。また南山城地方にのこ

る室町時代彫刻の基準作として貴重な作例です。

 なお、当薬師堂裏の寺墓の地蔵石仏刻銘に「天文8己亥

(1539)3月 日 □□修 一和尚英紹」とあり、当像の

寄進者「英紹」は此処鹿背山に住し本尊薬師如来を護り25

年後には法印から一和尚(長老)となっていたことが判明す

る。西念寺の歴史をたずねる貴重な情報となっている。

 

【参考文献】

 京都国立博物館編『定朝から運慶へー院政期の仏像』

 岩波書店1992年

 『文化財保護』no.5京都府教育委員会 昭和62年